光原社と宮沢賢治とゴーシュのコップと詩人のこと。

「光原社」といえば、宮沢賢治を連想するのは私だけだろうか。

 

生前、まったく売れなかったと言われている賢治の最初の童話集、「注文の多い料理店」を出版したのが、盛岡で農業関係の書物を出版していた初代光原社主、及川四郎氏である。

 

若いころから、賢治ファンであった私は「光原社」といえば宮沢賢治であった訳だが、ガラスの仕事をするようになって、盛岡と、仙台に光原社という、工芸のお店がある事を知り、「もしかして、宮沢賢治とつながりがあるのでは?」と思っていた。

そして、後年、広島の舩木倭帆氏の元で、修行中の時、現在の光原社の若当主さんと、知遇を得る事となり、工芸店である現在の光原社さんも、宮沢賢治にゆかりのある光原社であることが分かったのである。

 

思えば不思議な縁であり、きっかけを与えてくれた師匠には改めて感謝している。

 

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それで、独立してから、光原社さんで個展をさせていただく事になった時、案内の葉書に次の一文を書かせていただいた。

 

「セロ弾きのゴーシュ」で家に帰ってきたゴーシュが水を飲むのはどんなコップだったのだろう。

そんな答えの見つからないコップを私はずっと作っていきたい、と思っている。

〜2010年7月光原社森永豊展示会DMより。

 

そして更に2012年、若かりし頃、バイブルのように持ち歩いていた宮沢賢治の最初の詩集「春と修羅」のような詩を書ける詩人になりたかった私は、調子にのって、また、賢治関係、のような、文を書いた。

 

売れない詩人になりたい。というのが若い頃のぼくの夢だった。どうして「売れない」が頭につくのかというと、売れない方が本物っぽく思えたからだ。ガラス作家になるということは半ば詩人になるようなものだから、とりあえずは夢がかなった、という事になる。

〜2012年7月光原社森永豊展示会DMより。

 

売れない方が本物っぽく・・・というのは、賢治の童話や、詩集が生前売れなかったり、ゴッホや、田中一村の絵が生前、評価されなかった、という話から、売れるのは本物ではないのだ!と若く、青く、硬く思い込んでいたのだろう。

今は私はそんな事は思わない。第一売れなくては、作品を作る原料も燃料も買えないし、それに、賢治もゴッホも田中一村もその後正しく評価され、作品はむしろちゃんとすごく売れたではないか。

 

そうゆう事で、今回も文章付の葉書が出来た。今回はあまり、賢治的、ではないが、それでももし、宮沢賢治が今の時代にいたならば、どのような行動をし、どのように感じられるであろうかと思えば胸が痛む気持ちも入っている。

仙台光原社さんで二年ぶりの個展です。

それで、一回目の個展の時、思いつきで賢治くんガラス人形を作ったのだが、今回、またリクエストがあったので、作ってみた。

勝手に現在によみがえらせてすいませんとこころで謝りつつ。

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光原社出品作から、 「Kenji」

光原社さんと宮沢賢治との、由来については、仙台光原社さんのホームページに詳しく、書かれているので、興味がおありの方はぜひ読んで見られる事をおすすめする。

簡素でわかりやすい文章で、当時の宮沢賢治と、及川四郎氏と、もう一人、近盛善一氏との面白いエピソードが紹介されている。花巻農学校時代の若き賢治と、及川、近盛両氏の熱い語らいが目に見えるようである。

 

仙台光原社:すぐれた手仕事

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