ガラス窯の火を落とすと、急にガラス小屋の空気が寒々として、どこかそっけなくなる。
ガラスの神様がいなくなるのだろうか。
せめて少し残った余熱で、お湯を沸かして、コーヒーを淹れることにする。
ガラス炉の熱を利用して、給湯に利用したり、パンを焼いたり、お芋を焼いたりできるのだが、今はせいぜい湯たんぽのお湯くらいにしか使っていない。
昔のガラス職人は、お昼休みになると、窯の前に魚を焼いてお昼のおかずにしていたそうで、私もそれに習って、修行時代、窯焚きで泊りの夕御飯は、アルミホイルにサンマを包んで窯の前で焼いたりしたものだ。
魚は良いが、なぜか「四足」は焼いたらいけないのだ。
と、昔大阪のガラス工場にいたことがある師匠が教えてくれた。
なぜかは解らない。
私が思うにガラスの神様は、ケモノに近いのではないだろうか。
職人もケモノに近いときがあるからなあ。