これが私のガラス小屋だ。吹けば飛ぶようなとは、まさにこのことだろう。
壁板の厚さ、平均約5ミリ。透けているところもある。
(追記2014年2月21日)ブログを始めたころのガラス小屋。
この頃はまだ一ツ葉の木もある。
巾が二間しかなくて狭かったが、日当たりは良かった。今は一間増築して広くなったが、日当たりは悪い。
何にしろ、いいことばかりはありゃしない、のだ。
(今の小屋)
おんぼろ小屋で今日もコップを吹いている。
股火鉢という言葉をご存じであろうか?
これは寒いときにあまり寒いので、火鉢を股の間にかいこんで、あったまろうとすることであるが、鹿児島も梅雨があけてあんまり暑くなってくると、股扇風機というのが出てくる。
これはまあ、だいたいわかるだろうけど、あまり暑いので、せんぷうきを、またの間にかいこんで、ひとり涼しくなろうというもので、かっこ悪いのもあるが、涼しさをほしいままに一人じめにしているので、だいたい女房、子ども達に不評である。
あさましいことに子どもが、最近これをまねし始めて、机の下に、自分専用のせんぷうきを、置こうとする。
子は親の背を見て育つというが、こいつはいったい、親の何を見ているのであろう。
将来、年頃になって、またせんぷうきをしているお姿が、お父さんそっくりと言われては、子どもがフビンなので、ひそかに没収するつもりだが、見つかって醜い争いになるかもしれない。
不思議な発色をするガラスがある。
ネオジウムという金属を微量に入れることにより、蛍光灯の光で、ブルーに。
太陽光、白熱灯の光の下でピンクに発色する。
ガラスはいろいろな金属と反応し取りこんで、さまざまな化合物となり、いろんな色に発色する。
このネオジウムの発色も不思議だが、ウランを取り込むと螢光ガラスになり、暗闇でブラックライトを当てるとほのかに光るガラスもある。
プルトニウムをとりこんだら、どんな発色をするのか興味はあるが、これはちょっとあぶない。
(2013年4月9日)追記
岡山県の人形峠というところでかって、ウランの採掘がされていた。
純度が低いとかで、とりやめになったらしいのだが、その採掘跡地が放射能汚染で問題になったことがある。
フクシマの事故の前の話だ。
そこの所有者もしくは管理者である国と、ミツビシはその採掘跡地を有効利用すべく、「妖精の森ガラス美術館」を作り、ウランガラスの製造、開発を始め、ウランの有用性を喧伝した。
フクシマ事故以後の現在、どうなっているのか知らないが、原子力関係のお金があれば、ガラス工房など指先の一振りで作ることができるらしいと思ったことである。
興味があられる方は「岡山、人形峠、ウランガラス、」などのキーワードで、ヒットするので、ひまつぶしに見てみるのも一興であろう。
今回、光原社さんでの展示会にあたり「ゴーシュのコップ」のことを一言葉書に入れさせていただいた。
なかなか口に出して言うのも恥ずかしいので黙っていたが、私は独立してからずっと(あるいは吹きガラスを始めてからいつしか。)セロひきのゴーシュが家に帰ってきて、水を飲んだ時のようなコップを作りたい。と思ってきた。
はなはだバクゼンとしたイメージで、現実の答えは見つかりそうもないこの目標が果てのない制作の日々に合っていたのだろう。
私はこのイメージを抱き続け、いろいろなコップを作ってきた。
展示会をするにあたり店主の方から、案内のはがきに何か一言書いてみませんかと言われ、最初は辞退したのだが、今までのコップへの想いを人に伝えるよい機会かもしれぬと思い、一言伝えた。
(その内容を)断られなかったのは、店主の方のご厚意であろうが、おこがましくも一言入れさせていただいたおかげで、私の抱き続けてきたコップへのイメージを少しでも伝えることができるのではないか、と、嬉しく思っている。
こうゆうことはなかなか口では言えないことだから。
知ってる人は知ってるだろうけど、なつかしのアルマイトバケツ。うちの小屋では、防火用水入れにしている。
ラベルがかっこよすぎていまだにラベルをはがせない。
写真に撮ったからそろそろいいかな。
記念にアップでもう一枚。
「昔作ったピッチャー」
これはちょっといかんかったなあ。と思いつつ、捨てるにはおしい、というのがたまにできる。
ちゃんとした作家のひとだったらぱーんと、割ってしまうのだろうけど私はそれができない。
だいたい家で使うことになるのだけど、そのうち「はて?どこがいかんかったけ?」・・・「なかなかよかのを作ったなあ。」と自画自賛していたりする。
物は使い出すと、別の道を歩き出すのではないかと思う。
どこに行くのか、もう作った人間でもわからない道を。
その尊厳があるからいったん作ったものはなかなか壊せない。でも壊すことも、ある。
(追記)作ったものを壊すことは作った本人にしかできない(世に出す前であれば)。
従って、作った作品を残すことは作家の責任でもある。